ひとりごと

首都圏で教師をしているゆとり世代の独り言。

2022年の年の瀬に

思い返せば、

今年もいろいろなことがあった。

 

一番大きかったのは、

4月の新人事だろう。

最初の挨拶から嫌な予感はしていた。

これは使えない…というオーラがビンビンだった。

自分の直感が間違っていることを祈りたかった。

 

しかし、大当たりだった。

 

自分も無能なことを棚に上げて言うが、

無能な副社長に振替休は消され、

小1レベルで出来ることを何度も聞かれ(その都度仕事を邪魔され)、

自分のミスは人のせい、

役所からの電話にも常に逆ギレ、

目の前の電話が鳴っても取らず、

所見や学級便り等の文章の直しは日本語が怪しい。

なんなら普段の会話も日本語が怪しい。

無駄に話は長い上にテンポが悪くて内容は入ってこない。

 

私の経験上、一番ひどい。

といっても高々10年程度の経験だが。

 

そんな人に振り回されて過ごした。

まだ学年担任同士の仲が拗れていないから、

それだけが救いだった。

 

仕事は忙しかったが、

特に夏休み後半から2学期中盤までは鬼のようなスケジュールだったが、

何とか体調を崩さず走り切ることができた。

 

残り3ヶ月。

異動が見えているので、

それまでに様々なものを引き継ぎ、

跡を濁さず去りたいものである。

 

プライベートは決して順風満帆ではないが、

ただの無い物ねだり、

違う人から見れば、

きっと幸せな部類なのであろう。

 

ただ願うのであれば、

私がこの世を去るその瞬間に、

現世に悔いを残さず別れを告げられる、

そんな残りの人生を歩みたい。

近況

今年度から担任に復帰して、

…というと意味深だが、昨年度は社内の事情により担任から外れていただけなのだが。

まぁとにかく担任に戻り、自分の考え方が変わったのを実感しながら、

来年に比べ穏やかな心で日々を過ごしている。

 

実際には、広角に見れば平坦なだけで、ズームしてみれば浮き沈みはしているのだが。

 

テンポ感の合わない、価値観も合わない相手とのやり取りは非常に疲れる。

その相手が管理者であると、余計に疲れる。

四方八方に気を遣いながら過ごす日々に変わりはなく、結局いつも通り石鹸的ポジションに収まる。

今年度でこの職場とも別れを告げることになると思うと、いろいろ達観できるのだが、それでも受け入れることが難しいことも多くある。

 

せめて、見返りがあれば、もうちょっと頑張れるのだが。

何か心躍るようなイベントが起きてほしいものである。

教師という理不尽

何があっても、子どもにとって理不尽なことはすまい。

そう思いながら仕事をしているが、実際教師は理不尽なことが多いと思う。

 

例えば、子どもたちにはチャイム着席を守らせようとする。

しかし教師は会議の時間に遅れてくる。飲み会も遅れてくる。

ただ遅れてくるだけではない、悪びれもせず、堂々と佇むのである。

 

仲間はずれや人によって態度を変えたりするのは良くない、と教師は教える。

しかし、気に食わない若手教師に対しパワハラ同然のことをするベテランがいたり、

露骨に派閥形成をし派閥外の教師を威圧するような教師がいたり、

それこそ教師による教師へのイジメが世間を騒がせたのは、まだ記憶に新しいところだろう。

 

感情的になっている子どもに対して、感情的になるなと感情的に叱る教師がいたり、

授業中寝ている児童を叱る一方で会議になると夢の世界へ旅立つベテランがいたりと、

いやはや、実に理不尽な存在である。

 

意外と、・・・いや、当然のことかもしれないが、

子どもたちはそういった理不尽な教師を見抜いている。

 

かつて担任していた子どもたちが、高学年になり、そういったことをよく愚痴りにくる。

こんなことを言われた、あんなことをしていた、等々、

目の前にいるのも、その理不尽の一味だぞ、と言ってやりたくもなるのだが、

実に素直に、感じたことや考えたことを話してくる。

子どもの方に非のある内容であれば、その点を子どもに指摘する。

しかし、明らかに教師に非がある内容であれば、子どもに共感せざるを得ない。

 

大人は子どもにとって良き手本であらねばならぬとよく言われる。

当然、教師も人間である故、過ちが生じることはある。

特に子どもに指摘された時に、その過ちを過ちと認めず、強引に覆そうとすると、当然理不尽が生じる。

過ちを素直に認めることが、理不尽さを無くす第一歩になると思う。

結局、プライドの高さや精神的な幼さなどが、子どもにも見透かされているのだと思う。

 

見方を変えると、そもそも教師の置かれている状況こそ理不尽だとも思える。

コロナ禍への対応に追われるだけでなく、不毛かつ期限の短い調査が次々と降り注ぎ、

職員に感染者が出ることで、その穴埋めを残りの教員で行い、事務仕事は賽の河原の石積みの如く果てしない。

それでいて人事院勧告のせいで給与は減らされ、時間外労働が基準を超えていると行政から指導が入る。

時間外労働をしたところで一銭にもならないのだから、当然そのようなことはしたくないのだが、

しないと仕事が回らないのである。

学級閉鎖や短縮授業の影響で授業進度や時数にも影響が出ているのに、

授業時間を使わないとできないような調査を、この年度末に行なわされるなど言語道断である。

 

人権の問題、いじめ問題もそうだが、教師の置かれている環境を改善することも

より良い教育を行うためにも、子どもたちのためにも、重要なのではないだろうか。

ゴールライン

いつからだろうか。

ゴールラインの位置が気になるようになったのは。

 

人間ドッグの受診を決めた時?

 

家庭をもった時?

 

親しかった友人の死を受け入れねばならなかった時?

 

挫折を味わった時?

 

それとも、もっと昔?

 

はっきりとは、思い出せない。

いや、おそらくずっと頭の片隅にあったことだから、

これといった決定的瞬間がないのかもしれない。

 

自分は、いつ終わりを迎えるのか。

 

昔から、長生きをしたいとおもったことはなかった。

 

長生きをしなければならない、と思ったことは幾度かある。

 

でも、それは自分の想いとは異なっている。

 

必要があるなら生きる。

必要がないなら、生きない。

それが、本心である。

 

問題は、必要という言葉である。

主語が、明確でないのである。

誰にとっての話なのか、それがわからない。

 

昔は、何となく近い将来のビジョンが見えていた。

そして、それなりに、見えていたビジョンの通りに生きてきた。

 

今では、自分が5年後10年後、一体どうなっているのか、どうなっていたいのか…

全く見通せなくなってしまった。

 

自分の将来を見通すためにも、ゴールラインの位置が知りたいのである。

ゴールが見えれば、そこに向かうビジョンが見えるであろう。

 

身の回りの全てを把握していないと安心できない性質の自分にとって、

自分の歩んでいる道がどこに繋がっているのか、どこで終わりを迎えるのか、

それが把握できないことが、非常にストレスなのである。

それを把握することは至極困難だということは、もちろん理解をしているのだが…。

忍耐力を身につけるには・・・?

仕事をしていて、近頃特に感じるのが、子供の忍耐力のなさである。

 

取り組もうとしていることが難しそうだと思うと、やめようとする。

やっていて大変だと感じると、やめようとする。

聞こえてくるのは、いつも同じ言葉。

「嫌だ」「めんどくさい」

 

その言葉が既に未来を断っているような気がしてならない。

 

これも、近頃の風潮なのだろうと思うが、

子供が嫌だとか行きたくないとかやりたくないとか言うと、

それを大人が直ぐに、素直に受け入れてしまう。

結果、学校にも行かず家でゲーム三昧。

生活習慣は乱れるし、たまに来ても授業にはついていけない。

勉強がわからなくなるから、余計に登校しなくなる悪循環である。

今はそれでよいかも知れないが、未来は一体どうなるのだろうか。

未来の子供、未来の自分に対して、それで後悔することはないのだろうか。

 

無理強いをするのが良くないのはもちろん理解できる。

しかし、やるべきことをやらない子供に対して、

指導も何もせず、好きなようにさせることは、

果たして本当に子供のためになるのだろうか。

 

近頃の子供に限らず、大人もそうだと思うのだが、

やたらと権利ばかりが叫ばれ、やるべきことがなされていない気がする。

権利を行使することは悪いことではないけれど、

それが他者の権利を侵害していないか、とか、義務は果たしているか、とか、

一歩立ち止まって自分を見直す必要があるのではないだろうか。

 

課せられた義務は、決して快く受け入れられるものではない。

しかし、それが義務として課せられているのには、必ず理由があるはずで、

その理由を考え、自分の心を律して果たしていくことが、

心置きなく権利を行使するために重要なのではないだろうか。

 

嫌なことに耐える、やりたいない気持ちを抑える、最後までやり抜く。

そんな力をつけてくことが、これからの社会を生きていく上で

大切なのではないかと思う。

 

しかし、問題はどうすればその力がつけられるか、である。

これは、社会全体でそのような雰囲気づくりをするところから始めなければ

学校だけでも、家庭だけでも達成できないと思う。

こういった物言いをすると、戦前の悪き教育と同じだと言われかねない気もするが、

自分の目の前だけでなく、先を見据えることの意義を、

子供がわかるように教えることが、大人の責務だと思う。

少なくとも、自分はそう思って仕事をしている。

 

結局それが上手くいっているかと言う点については、残念ながら納得のいく結果は出ていない。

むしろそれが原因でクレームをもらうことの方が多い気がする。

現代で通用するようなやり方については、今後も試行錯誤が必要、ということだろう。

おかしいな、自分も比較的若い方の部類に属する人間だと思っているんだけどな。

ドラゴン桜を観て思うこと

テレビをつけたら、たまたまやっていたドラゴン桜

こんな人物居たっけ?ハセキョンは?とか思っていたら、

どうも新シリーズの再放送だったらしい。

 

普段、学校をテーマにしたようなドラマは全く観ないのだが、

なぜか気になってしまい、結局ずっと観てしまった。

 

なぜ観ないのかというと、

結局ドラマだから現実味がない、ご都合展開が気に入らない、といった理由がある。

 

大学入試なんて、自分の経験でしか知らないし、高校教育がどのようなものかも知らない。

だから、他のドラマに比べて、雑念なく観れたのかもしれない。

 

で、観てどう思ったのか。

個人的な解釈なので、違うところもあるかもしれないけれど、

自分への記録という意味も込めて、つらつらと書いてみる。

 

 

共感できたところが、

教師は学問を教える以上に、子供が進んで学ぼうとするよう、

モチベーターのような役割が大切だ、ということ。

これは、今の学習指導要領で教職員に求められている資質だと思う。

 

今の子供たちは、言われたことはやろうとするが、

自分から考えて取り組む、新しいことに挑戦する、という意欲は低いように思える。

自分自身の子供の頃の経験からも、

やらされる勉強よりも、やりたいと思って取り組む勉強の方が効果があるのは納得できる。

学習指導要領に沿いながらも、いかに子供たちの学びたいという意欲を引き出せるか、

そこが難しいと思いながら、日々仕事をしている。

 

学習面の描写についても、それが正解かは別として、理解できる部分が多々ある。

同じ内容を教えるとしても、力のある子とそうでない子とでは、当然理解度に差が出る。

 

算数や数学で、公式や定義を教えるときが、まさにそれだろう。

力のある子は、公式や定義の意味をすぐに理解できるから、困ることがない。

苦手な子からすれば、意味のわからないことを覚えさせられている。

意味がわからないから、使い所もわからない。つまりは使いこなせない。

 

公式や定義は、例題を通して、まずは既習事項を活用しての解決方法を考える。

そこから法則性などに気付かせ、最終的に公式や定義として一般化し、練習問題を通して習熟する。

そのような流れを意識して、1単位時間の授業を構成するようにしている。

 

これが、力のある子の多い授業だと、一般化までがすんなり終わってしまう。

塾などで学習が進んでいるために理解できているような子も多く見られるが、

ただ覚えていること、ではなく後に活用できるような道具となるよう、仕組みから考えさせる。

 

苦手な子が多いクラスでは、まず学習内容をいかに自分の生活に結び付けられるかを考えながら

どのような導入が一番効果があるかを考える。

さらには例題を一般化する時も、いかにシンプルに、子供の感覚に近いものとして落とし込むか、

言葉としては、ごく一般的な数学用語で公式や定義をまとめるが、

子供の感覚に近い言葉を使って、咀嚼させることが大切だと考えている。

その中で、これはどういうこと?とか、こんな場面でも使えそう!とか、

そういった言葉が溢れてきたら、ある程度上手くいったかな、と思っている。

 

社会の学習でも、同じようなことが言えよう。

特に歴史の学習は、子供も大人も暗記を求められる学習だと思っている。

でも、歴史の学習でやるべきことは違うと思う。

過去の出来事や人物たちの取り組み、歴史的事象の経緯にまずは興味をもつこと。

なぜそうなったのか、それが今の世界にどのように生かされているのか、

それを調べ、調べたことから考察することこそが大切なのではないだろうか。

 

正直、年号を覚えたり、総理大臣や将軍を覚えたりすることには、大して価値がないと思う。

それよりも、なぜそのような政策が行われたのか。

時の権力者たちはどうしてそのような選択をしたのか。

結果はどうだったのか。

それを調べ、考えることの方が、未来を担う子供たちにとって価値のある学びになるはずだ。

 

要は、いかに自分ごととして課題を捉えさせることができるか、なのだろう。

どの教科であろうが、これは同じ、ということだと思う。

新学習指導要領を、ざっくりといえば、このように解釈した。

 

 

教育は、理想としては一人ひとりに対して適切な指導・支援を行うことだと思うが、

現在の学級あたりの児童・生徒数からすれば、理想論で終わってしまう。

だからこそ、子供たち一人ひとりが自分の課題に向き合い、率先して解決に取り組もうとする、

そんな環境づくりが大切なのだと思う。

 

使い勝手はともかくとして、子供たち一人ひとりがタブレットを活用できる環境が整いつつある。

これは、自主的な学習という点では、大きな一歩だと思う。

しかし、その使い方を間違えれば、投入された多額の税金は無駄金となってしまう。

タブレットの使い方に制約を設けるよりも、

子供たちがたくさんの知識を吸収したい、思考したい、交流したいと思うような環境を整え、

無駄な使い方をすることが勿体無い、と子供の口から発されるようにしていくことが、

教育現場でのICT活用の第一歩なのだと考える。

 

情報モラル教育も充実させることが必須となっているが、

それも、ただ禁止する、やってはいけないことを教える、では全く意味がないと思う。

どのような使い方をしたらよいか、このような使い方はありかなしか、など、

子供が考え、綺麗事ではなく自分の課題と捉えられるような指導が大切だろう。

 

 

連想ゲームのように、思いついたことを書き連ねたら、だんだんとまとまりのない文章になってきた。

とにかく、ドラゴン桜を観たことで、自分の仕事に対するモチベーションを高めることができた。

自分にはまだ十分な指導力がないが、子供たちと接する中で、自分自身も磨いていきたい。

そんなことを改めて考えた年の瀬だった。

年の瀬に思うこと

仕事納めもしたので、年の瀬に思うことをつらつらと

 

1.ストレスは体にとって害しかない

2021年最終勤務日、荒れているところの支援に入る。

どのように荒れているのかというと、簡潔に言えば、制御ができていないのである。

不適切な私語、大人を大人と思わないような言動、自分勝手を抑えられない、などなど

控えめに言っても、集団として機能していない状態である。

そこに支援に入り、あまり動かない主責任者にも苛立ちを覚えながら、指導を繰り返す。

各個人の特性も当然あるのだろうけれど、もはや環境が不適切な状態と言っても、言い過ぎではない。

それくらい、酷い状態であった。

わずか半日一緒の空間にいただけで、胃がやられた。

 

私は基本的にストレスが暴食につながるタイプだが、それを超えると一気に拒食に転じる。

過去に一度だけ、あまりにもストレスが蓄積し、爆発し、1週間程度の拒食に陥ったことがある。

その時は一緒に組んでいた主任が自分勝手すぎて、無茶苦茶すぎて・・・といった状況だったが、

そうか、今回もそれに近いのかもしれない、と思った。

 

結果、未だに完全復調とは言えず、胃に不快感が残り続けている。

 

本当に、ストレスは体に良くない。

下手したら命に関わる。

ストレスのない環境で仕事をしたいと思うが、

それは宝くじが当たるくらい実現不可能なのだろうな、と思う。

せめて報いがあれば良いのだが・・・。

 

 

2.何を優先するか

今、趣味の一つであった「合唱」から距離をとっている。

感染対策で参加していない、というのもあるのだが、熱が完全に冷めてしまったのが一番の理由になる。

 

コロナ禍への対応の中で、価値観の違いが浮き彫りになった。

主に、感染リスクに対しての、価値観の相違である。

国内でも数千人程度の感染が出ている時期に、対面での練習を行おうとする強硬派。

感染者が出た時の公私双方に関わるリスクを考え、オンライン継続を通そうとする幹部。

私は幹部側の人間で、対面については断固反対派だった。

 

対面で行いたいという気持ちは理解できる。

しかし、高リスク下で敢えて強行する必要はあるのだろうか。

どうしてその程度のことを考えられないのだろうか。

そんなことを思ったら、一気に冷めてしまった。

 

結果、対面練習が再開した今、一度も顔を出してはいない。

もちろんリスク管理のため、というのもある。

が、それ以上に、もう打ち込めないのである。

歌うことに、集中できないのである。

 

自分自身の広く浅い趣味を、そろそろ整理すべき時期なのかなとも思った。

かつて、二人目の子供が産まれた時に、妻から退団を要求された。

当時、幹部だったこともあり、自分の数少ないストレス発散方法だったこともあり、

結局退団せずに今に至る。

しかし、もしその時に妻に言われた通り退団していたら、

貴重な経験の多くを失っていたと思うが、今悩むこともなかったのかもしれない。

自分の選択に、今更ながら悔いは残る。

 

現在は、辞め時を探っているような状態である。

 

 

iPadを新しくし、対応するキーボード付きのケースを使ったら、なんとも使い勝手がよい。

これは本当にパソコンが要らなくなるやつだ、と思う。

結局写真の保管だったり、バックアップを取ったりで必要にはなるのだが、

技術の進歩とは、本当に凄いものだなと思った。