ひとりごと

首都圏で教師をしているゆとり世代の独り言。

多様性

今日、たまたま某動画サイトを見ていたら、サイコパスについての動画があった。

 

その動画の中身を信じるのであれば、自分は思ったよりもサイコパスではないらしい。

むしろ、サイコパスが嫌がる人種の方が近そうであった。

 

今までに関わってきた人を思い出すと、その都度少しずつ、サイコパスに近いのはいた気がする。

それは子供も大人も含めてである。

 

しかし、サイコパスという言葉を知る前は、そんなこと思いもしなかった。

変なやつ、とかあんましお近づきになりたくない、とかその程度だっただろう。

 

思えば、ADHDやLDなんかも、昔はその程度の感覚だった。

当然、今よりも特性の理解は低かったわけだ。

 

逆を言えば、今の時代の方が、そういった方面に対する理解は世間的にも深まっているように思う。

同時に、多様性を受け入れろ、という圧も強くなっている気がする。

 

理解が深まる前の方が、実は多様性を受け入れていたのではなかろうか。

 

過去の人類の過ちを振り返れば、必ずしもそうとは言えないが、

一般市民レベルで考えると、発達障害等に対する理解が深まってきた今の方が、レッテル貼りをすることで壁を作っている気がする。

その結果、多様性の許容を強いられるような展開になっているのではなかろうか。

 

そもそも、多様性の許容を強いられること自体が、多様性を否定している部分もあるのでは?

受け入れる人もいれば、受け入れない人もいる。

それも多様性なのではないのだろうか。

 

不当な差別はよくない。

しかし、だからといって嫌だと思うものを嫌だと言えないのも、また差別なのではないだろうか。

 

日本でよくある構図な気がする。

弱者の味方をするふりをして、人の揚げ足をとって見下す構図。

政治家やマスコミでよく見る構図であり、子供たちのトラブルでもよくある構図である。

その構図は、多様性を受け入れている形になっているのだろうか。

少なくとも、私にはそうは思えない。

 

多様性を受け入れるというのは、究極的には各人が思いのままに生きていく世の中のことなのではないだろうか。

同性愛に肯定的な人もいれば、否定的な人もいる。

発達障害児と健常児を同じレベルで学ばせる場所もあれば、しっかり区別することで個に応じた支援の中で学ばせる場所もある。

その両者が共存することこそが、多様性なのではないだろうか。

 

少なくとも、今の政治家やマスコミが、そのような社会を作ろうとしているようには全く思えない。

揚げ足をとることで視聴率を稼ごうとするマスコミ。

下らない議論に時間をかけ、大切なことを全く進められない国会。

税金を取ることしか考えない行政、収益を末端まで分配しない企業etc.

しかしこれらは、競争が基本となる資本主義国家故にやむを得ないところであるのだろう。

そのような世界で、果たして多様性を受け入れられる社会を創り上げることは、果たして可能なのだろうか。

これは人間が動物である限り、厳しいのではないだろうか、と思う。

もしできるとしたら、人間が動物の本能を超越した、新たなステップに突入した時となるのではないだろうか。

 

だんだんと話が広がり逸れてきてしまった気がする。

休日は、こんなことばかり考えている間に終わってしまう。

たまには自分自身も、様々なしがらみから解き放たれてみたいものである。