ひとりごと

首都圏で教師をしているゆとり世代の独り言。

かつて蝙蝠と罵られた愚痴られ屋

このところ、やたらと愚痴を聞かされる場面が多い。

 

直近の例で言えば、

実家を出る妹に対する母親の愚痴。

それと、職場の先輩、後輩の愚痴。

 

母親の愚痴については、正直かける言葉もない。

自身が娘に対してかけてきた、歪んだ愛情の結果だ。

最も、娘の方もそれを受け流す器量がなかったわけだが。

 

職場の愚痴は、厄介だ。

後輩は、先輩に対し、言っていることがわからないとか、言われた通りにやってきたのに、とか、そんな類の愚痴を零す。

かたや先輩は、なかなか行動を始めない後輩に対し不満があり、いろいろ気になることを教えたのに不機嫌になられてしまったことに苛立ちを覚えている、といった具合。

 

ほんと、人間関係は難しいと思う。

伝えたいことがなかなか伝わらない。

伝える側も、受け取る側も、何かひとつボタンをかけ間違えてしまう。

 

対立する両者の関係をなるべく穏やかにしたい。

そう思いながら、いつも愚痴を聞いている。

 

しかし、ふと思った。

 

自分は両者に対して良い顔をしているだけなのではないか、と。

 

かつて、小学校の頃の担任に、

「お前は都合の良い方に行ったり来たりする蝙蝠だ」

と言われたことがある。

確か、友人同士が学校で喧嘩になった時だった。

 

きっとその担任は、私が両者の間を行き来して、余計に対立を煽っている、と言いたかったのだろう。

 

私は、先も述べた通り、両者の関係を穏やかにしたい。

対立状態を少しでも改善したい。

そんな思いで話を聞いていた、はずである。

20年以上も前の話なので、確証はないが。

 

私は、他人からの評価を特段気にする性分である。

特に、ネガティブな評価については、過敏に、そして過大に、気にしてしまう。

その性分も、きっと「蝙蝠」の一因だろう。

 

きっとこの先も、今までと同じように過ごすのだろう。

対立する二勢力から愚痴を聞かされ、間に挟まれ、仲を取り持とうとして、結果両者からの信用を失う。

そんな生き方を、死ぬまで続けるのだろう。

 

いつか、自分を正しく理解してくれる人に会えることを願い、いつか、報われる日が来ることを祈って、今日もまたひとり、荒野を彷徨うのである。